桜さんぽ 奈良県その1(藤原宮跡)
4月4日、阪急交通社トラピックスの奈良県桜めぐりの
バスツアーに主人のお母さまと一緒に行ってきました。
まず1ヶ所目は藤原宮跡です。
当日、桜も菜の花もちょうど見頃で
観光している方も多く
その人数を感じさせないほどの広大です。
季節ごとに楽しめる5つの花のゾーンがあります。
今の時期楽しめる春ゾーンは桜と菜の花、
7月に開花する蓮ゾーンや
夏ゾーンは8月に咲くキバナコスモス、
10月上旬から楽しめるコスモスは
秋ゾーンと朝堂院東ゾーンと2か所あります。
藤原宮は1300年以上前の都である藤原京の中心でした。
藤原京は中国を手本に設計され、
日本初の条坊制を取り入れた計画都市です。
日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」と書かれています。
710年に平城京に遷都されるまでの
16年間という短い期間ですが
春すぎて 夏来たるらし 白妙の
衣ほしたり 天の香具山
この有名な持統天皇の歌は
ここで詠まれたそうです。
持統天皇は天武天皇の死後、夫の理想を形にするために政治を行いまた。
藤原京もその一つだと言われています。
言われる方もいます。
旧都の留守をすることになる石上 麻呂(いそのかみ の まろ)
彼はかぐや姫に求婚する貴公子の一人「石上のまろたり」の
モデルではないかと言われています。
石上のまろたりはかぐや姫に燕 (つばくらめ) の子安貝を求められ、
自分でそれを取ろうと失敗してその傷で亡くなってしまいます。
貴公子のモデルではないかと言われています。
竹取物語について
引用元:竹取物語 - Wikipedia
時代設定
江戸時代の国文学者・加納諸平は、『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。諸平は、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物であり、車持皇子のモデルは、天智天皇の落胤との説があり母の姓が「庫持」である藤原不比等、石作皇子のモデルは、宣化天皇の四世孫で「石作」氏と同族だった多治比嶋(丹比真人島)だと述べている。しかし、物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人が連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子と、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある[31]。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。 また、この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。
そこには思いもつかないようなドラマがあるのかもしれません。
菜の花が風に揺れている景色を見ながら
そんな悠久の歴史に思いを馳せてしまいます。